不穏な展開と不気味な映像で魅せてくれる、2019年に製作された映画『凶宅契約/Impetigore(インペティゴア)』 を鑑賞しました。
本作は「村の呪い」を描いたインドネシア・フォークホラーですが、一度観ただけですべてを理解できるほど、単純な作品ではありません。そこで本記事では、インドネシアの宗教・信仰・呪術に関する資料を手がかりに、本作を考察してみます。
なお、本作は細かい背景を知らなくても、ただ映像の不穏さに身を委ねるだけでも十分に楽しめる作品です。
インドネシア呪術と「影の胎児」が織り込まれた静かな怪作
ジョコ・アンワル監督の東南アジアン・ホラー
ジョコ・アンワル監督の『凶宅契約/Impetigore(インペティゴア)』を観た。
監督は、日本でも公開された『悪魔の奴隷/Satan’s Slaves』や『呪餐 悪魔の奴隷/Satan’s Slaves 2: Communion』を撮ったことで知られている。
国内版の映像ソフトも、配信も、この記事を書いている時点(2025年12月)では存在しない。
視聴しようと思えば、輸入盤を入手するのが一番早い。もちろん英語字幕しかない。
また、地域によってはNetflixで配信されている場合(時期により視聴可否は変わる)もある。なんやかんやすれば、国内で視聴できる可能性はある。
帰省して恐怖体験する映画
主人公マヤは、親友のディニと一緒に生まれ故郷の村に帰省する。しかし、村には呪めいたなにかが蔓延だ! 陰湿なアトモスフィアが辺りを支配し、村の住人は――殺伐! 実際、あからさまにマヤとディニは命の危険を感じる。そんなインドネシアのヤバイ級ホラー映画。
映画では冒頭から不穏な空気は漂っており、想像力豊かな人ならばこの時点ですでに怖いと感じるかも知れない。
しかし、想像力の欠落した私は、最初の1時間くらいは大したイベントも起こらず、なんだかつまらないと眠くなっていた。だが中盤から物語は一気に加速し、映像的にも演出的にも派手な展開となり、非常に面白くなる。
ただ申しわけないが、まったく怖いとは思わなかった。むしろワクワクしながら夢中になった。
作品理解にはインドネシアの宗教・信仰・魔術が必要
表面上は“村の因習と呪い”を扱ったアジア系フォークホラーだが、その奥にあるのは インドネシア特有の呪術観・胎児霊・影絵文化 を軸とした物語構造だ。
しかし、作中ではこれら文化的背景を詳しく説明してくれない。
そのため インドネシアの民俗・宗教・怪談に関する前知識 がないと、内容をしっかり理解するのはかなり難しい作品だと思う。
実際、多くの視聴者は、「不気味な空気の漂う映像がとても良い」、「呪術師の婆さんがリアルに怖い」など、雰囲気だけで満足できるが、内容に関してはよくわからない作品で終わっているようだ。
私自身も鑑賞直後はよく理解できず、気になって色々と調べた。
ジョコ・アンワル監督のインタビュー記事を読み、Web上で公開されている インドネシアの宗教・信仰・魔術に関する民俗学的論文(PDF) を読み漁り、最低限のバックグラウンドを知って、ようやく本作の“呪いのメカニズム”が見えてきた。
『Impetigore』が日本での公開を見送られた理由としては、こうした “文化的背景の知識があるのが前提”で観ないと、内容の全貌を把握しづらい作品であることが大きく影響しているのではないだろうか。
この記事を書くのに参考にした民俗学的背景資料について
本記事の民俗学的背景については、インドネシアおよび東南アジア地域における宗教・呪術・胎児観を扱った民俗学的論文や研究資料(PDF)を複数参照している。
これらの研究資料の多くは、大学紀要や学術リポジトリを通じてPDF形式で公開されているものだ。
興味を持った方は、
「Indonesia folklore fetus spirit」
「Javanese placenta belief」
「Bali Nyama Catur」
などのキーワードで検索すると、学術的な論文や研究資料を見つけることができるだろう。
ジョコ・アンワル監督のインタビューから見える、本作の意図
怖さの原点は「わからなさ」にある
『Impetigore』について、ジョコ・アンワル監督は公開当時に行われた複数のインタビューの中で、本作を
- 「すべてを説明しないホラー映画」
として、意図的に設計した作品だと語っている。
作中に登場する呪いや儀式、村に残る因習についても、観客に対して逐一説明することはせず、インドネシアの文化や民俗的背景を、ある程度共有していることを前提に物語を進める構成を選んだという。
監督自身も、この映画は“怖さ”そのものを直接提示するよりも、
- 「なぜそれが恐れられているのか」
- 「なぜその行為がタブーとされているのか」
といった背景を、観る側が感じ取ることを重視していると述べている。
子ども時代の原体験が『Impetigore』の基になった?
またジョコ・アンワル監督は、子どもの頃の原体験についても語っている。
幼少期、兄から
「影絵人形(ワヤン・クリ)は“人間の皮で作られている”」
と吹き込まれたことがあり、それが事実かどうか以上に、
- 「布=皮膚」
- 「影=魂や異界の存在」
というイメージとして、幼い脳裏に強烈に焼き付いたという。
この体験が、布と皮膚、影と人形、現世と異界を結びつける、彼独自のホラー観の原点になっている――と、監督自身は語っている。
そのため本作は、異文化圏の観客にとっては説明不足に感じられる部分が多い一方で、民俗的・宗教的な文脈を踏まえて観ることで、物語の意味合いが大きく変わって見える構造になっている。
本記事で触れている「影の胎児」や、胎盤を兄弟と捉える観念も、そうした“説明されない前提”の一部として、作品の根底に据えられていると考えられる。
本記事で参照したインタビューについて
本記事の内容は、公開当時に行われたジョコ・アンワル監督への、海外映画メディアや映画祭関連サイトでのインタビュー記事を複数参照した上でまとめている。
監督の発言そのものに興味がある方は、英語で
- Joko Anwar Impetigore interview
- Joko Anwar Impetigore folklore
- Joko Anwar horror inspiration
などのキーワードで検索してみてほしい。
インドネシアには「影の胎児(shadow child)」という観念がある
生きて世に出ることができなかった胎児
インドネシア、とくにジャワ文化圏の一部には、「影の胎児(shadow child)」と呼ばれる観念が存在する。
生まれることができなかった子、死産した胎児、名前を与えられなかった存在は、“影”や“布”の中に宿ると考えられる民俗がある。
この“影の胎児”は、必ずしも怨霊として扱われるわけではない。
- 生まれるべきだった世界へ帰れない存在
- 母親の魂や家系に結びついたまま留まる存在
- 儀式によって鎮められ、送り返される存在
といった形で捉えられることもある。
『Impetigore』 に登場する「布の子(shadow child)」は、まさにこの伝承を下敷きにした、映画的な解釈だと考えられる。
霊的な兄弟
また、インドネシア、とくにバリ・ジャワ文化圏には、「人は母胎にいる段階から、複数の霊的存在と共に生まれてくる」という考え方がある。
バリ・ヒンドゥーにおけるニャマ・チャトール(四人の兄弟霊)は、胎盤・臍の緒・羊水・血と結びつけられ、赤子を守護する存在とされる。
これらの霊的存在は、地域や文献によって、黒・白・黄・赤といった色や名称を与えられ、四人兄弟として語られることがある。
また、胎盤(プラセンタ)を赤ん坊の「双子」「守り手」「霊的な兄弟」と捉え、赤ん坊が男であれば「兄」、女であれば「姉」として、人格化する文化も確認されている。
シャーマン(ドゥクン)の役割は「呪いを消すこと」ではない
ダルミは“万能な祈祷師”ではない
本作のキーキャラクターである老シャーマン、ダルミは、いわゆる“万能な祈祷師”として描かれているわけではない。
インドネシアにおけるシャーマン(ドゥクン)は、日本や欧米のホラー作品でよく見られる
「悪霊を退治する存在」とは性格が異なる。
民俗的には、ドゥクンは大きく以下のように区別されることが多い。
- 白(守る側)
封印、鎮静、浄化、警告、災厄の拡大を防ぐ役割 - 黒(攻める側)
呪い、呪術、病や不幸を意図的に引き起こす役割
ダルミができたこと、できなかったこと
ダルミは明らかに“白”の側に属する存在であり、彼女の役割は、
- 呪いの発生を遅らせる
- 暴走を抑える
- 封印を維持し、最悪の事態を防ぐ
といった「被害を最小限に食い止めること」にある。
逆に言えば、呪いそのものを完全に消し去る力は、彼女にはない。
呪いを作り出した者、あるいは呪術の根源に関わった側でなければ、その因果を断ち切ることはできない、という考え方が背景にある。
そのため、映画を観て
- 「なぜ老婆は助けなかったのか?」
- 「なぜ見殺しにしたように見えるのか?」
と感じる人は多いかもしれないが、民俗学的な視点で読み解くと、ダルミの行動は一貫したものとして理解でき、少なくとも作中世界の論理においては職能的に妥当な振る舞いだったと考えられる。
彼女は“救えなかった”のではなく、“救える範囲のことしかしていない”存在でしかないのだろう。
呪いが“血統”に付着するという東南アジア特有の感覚
血統に浸透する呪い
この作品における呪いは、特定の人物ではなく 「血統(家系)」に紐づいている。
これはフィクション的な誇張ではなく、インドネシアにおける黒呪術(サンテッ/santet)の発想としては、むしろ一般的な考え方だ。
インドネシアの呪術観では、呪いは以下の要素に固定されると考えられている。
- 呪術を施した者の意図
- 被害者個人ではなく、その家系・血筋
- 成仏できずに残った死者や胎児の魂
そのため呪いは「一人を殺すためのもの」ではなく、血を通じて繰り返し返ってくるものとして理解される。
本作で描かれる、
「特定の血筋にだけ不幸が集中し、代を越えて連鎖していく構造」は、
ホラー的な演出というより、実際の呪術観にかなり忠実な表現だと言える。
映画を観て「なぜ彼/彼女だけが狙われるのか」と疑問に感じた人もいるだろうが、民俗学の視点で見ると、その流れはむしろ自然に映る。
血に祟るという概念は、日本にも存在する
こうした「血統に祟りが及ぶ」という考え方は、実は日本の伝統的な信仰にも見られる。
たとえば「火元は七代祟る」という言葉がある。
これは、火事などの重大な過失や恨みを買う行為が、本人だけでなく、その家系全体に長く禍(わざわい)を及ぼす、という意味だ。
つまり、罪や穢れが“血”を通じて継承されるという発想自体は、日本にとっても決して異質なものではない。
なお、「なぜ七代なのか」については諸説あるが、一つの俗説として、血縁の希釈から説明されることがある。
親から子へ受け継がれる血の割合は理論上 1/2 とされるため、世代ごとに血縁は以下のように薄まっていく。
- 1代目:1/2
- 2代目:1/4
- 3代目:1/8
- 4代目:1/16
- 5代目:1/32
- 6代目:1/64
- 7代目:1/128
これは割合にすると 約0.0078125(=0.78125%) に相当する。
※この計算は、各世代で近縁婚が行われず、血が外部と交わり続けることを前提とした理論値であり、実際の家系や歴史を正確に反映するものではない。
しかしこのように、七代目ともなれば血縁的にはほぼ赤の他人に近い状態となり、そこから先では「血に宿った穢れや祟りも沈静化していく」と説明されることがある。
これは科学的な説明というよりも、呪いや穢れを「血の濃度」として理解しようとした、民俗的な思考の一例だろう。
シャーマン老婆がマヤを救えなかった理由
民俗的背景を踏まえて整理すると、本作におけるシャーマン(ダルミ)の限界は比較的はっきりしている。
- 呪いの発端は、村長の家系そのものに根差している
- 外部者であるシャーマンは、血統に付着した呪いを「解除」することはできない
- できるのは、呪いの発現を遅らせること、あるいは一時的に封じることだけ
- 封印が破られたとき、呪いは“本来あるべき形”で血統へと回帰する
- マヤが体験する悲劇は、その反動として起きたものだと考えられる
おそらくダルミは、呪いそのものを終わらせようとしていたのではなく、破局が訪れるまでの時間を稼ぎ続けていただけなのだろう。
映画を観て
- 「なぜ彼女はマヤを救わなかったのか」
と感じた観客は多いかもしれない。
しかし民俗学的な視点に立てば、彼女は“自らに許された範囲で、できることをすべてやっていた”とも解釈できる。
この一点を理解すると、作品後半で描かれる出来事は、単なる残酷描写ではなく、因果の帰結として一気に見通しよく見えてくるのではないだろうか。
マヤは「本来なら皮膚のない子」として生まれるはずだった?
呪われた胎児としてのマヤ
『Impetigore』の重要なポイントは、主人公マヤ自身が「呪われた胎児として生まれるはずだった存在」である、という設定にある。
彼女は本来、
- 母の身に降りかかった呪い
- 村長の家系に連なる血統呪
- 「影の胎児」という民俗的観念
それらを一身に受けて、この世に生まれるはずだった。
しかし、
- 母の持つ霊的な強さ
- シャーマンによる封印と介入
によって、ミアは一見すると“普通の赤子”として誕生する。
だがそれは、呪いが完全に消え去ったことを意味しない。
解呪ではなく「封印」
呪いは彼女の外側ではなく、彼女の「内側」に押し込められたまま、成長とともに眠り続けていただけなのだ。
そして物語の終盤で描かれるある出来事は、新たに呪われたというよりも、封印が解かれ、「本来そうであるはずだった姿」が戻ってきた――そう解釈したほうが、この作品の呪術観には近いのではないだろうか。
インドネシアの影絵(Wayang Kulit)の象徴性
影が語るもの、語られないもの
本作における影絵の表現は、単なる不気味なホラー演出ではないはずだ。
それは、
- 生と死の境界を行き来する装置
- 影の世界に取り残された魂の居場所
- 姿なき存在を可視化するための技術
- そして、語れない物語を語り継ぐための媒体
という、インドネシアの伝統文化そのものの延長線上に置かれていると考えられる。
影に隠した罪
影絵を介して語られる物語は、英雄譚であると同時に、しばしば人前では語れない罪や穢れを内包する。
作中で影が強調されるたびに感じる不穏さは、怪異そのものよりも、村全体が共有している沈黙を可視化していると捉えるべきだろう。
換言すれば、影絵とはこの村において、
- 誰も口にしない
- だが全員が知っている
“罪の記憶”を映し出す装置でもある。
そう解釈すれば、村人たちが多くを語らず、曖昧な態度を取り続けることにも、文化的な説得力が生まれてくるのではないだろうか。
『凶宅契約/Impetigore』鑑賞後まとめ
『Impetigore』 は、村の呪いをテーマにしたフォークホラーの“形式”を踏襲しながらも、その中身は極めてインドネシア的な、
- 胎児霊
- 影の子
- 血統呪い
- シャーマン文化
- 影絵芸術
といった要素で構成されている。
これらが複雑に絡み合い、本作は単なる「怖い村ホラー」では終わらない。
民俗学的な前提を踏まえて観ることで、本作は宗教観・死生観・呪術が縦横に絡み合う、逃れられない悲劇として、まったく別の深みをもって立ち上がってくる。
日本語版がリリースされていないのが惜しまれてならない。ホラー映画という枠を超え、むしろ“文化映画”と呼びたくなるほどの重さが、この作品にはある。
もっとも、文化的・宗教的背景を細かく理解しなくとも、映像が放つ不穏さに身を委ねるだけでも、この映画は十分に成立する。
考察してもよし、感じるだけでもよし――どちらの鑑賞態度も、この作品にとっては正しい。
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